仕事と夜間技術学校

昭和36年4月
15~16才

人間知りたいと思う心があればどんな所でも学ぶ事ができます
しかし、幾ら教えてもらっても自分から気付かなければ無に等しいのです

夜間の技術学校で、昼間の勤務先を紹介して頂いた。従業員を募集していた会社は、旧葛西橋のたもとにあり、200坪位の敷地内に工場と小さな事務所、社長の自宅を構え、自宅2階の部屋を寮にし、2人の従業員を住まわせていた。

工場の中で3人の年配職人と1人の若者が働き、事務所の職員は、社長の長男が営業を事務職はその妻が仕切り、食事の世話は社長の奥様が行っていた。顧客は東洋加熱工業や高千穂工業がメインで鍛造や火造り製作品が主力であった。その仕事は鞴 (ふいご・鍛冶屋などで、火を起こすための手動の送風器。最初は炉に種火を入れ、その上に炭を置いて火を起こし、炭が起きたらその上にコークスをのせ、鞴のザバラの取っ手を押したり引いたりして空気を送り、熱したコークスの中に真っ直ぐのパイプを入れて熱する。) を使ってパイプを螺旋 (らせん) 状に化工して「コイル」を造る鍛冶屋だった。その他に製缶物の工場製作も行われていた。、電気溶接は近くの杉目溶接工業から派遣された溶接工が行っていた。この時に溶接工できていたのは、長崎三菱造船所出身のおとなしい西村さん、東京で初めて九州の人と知り会った。私の仕事は、もう1人の相棒とコンビで天秤を担ぐ役、その他に火を起こし火力の調整役の鞴担当、ハンマー片手に螺旋に合わせてパイプを矯正しながら指示を出す班長の4人が1組になって作業を行うのであった。担ぎ役の私達は班長の指示と曲げる速度を見計らい、螺旋の曲がり具合に合わせて高く担いだり低く担いだり、火造り冶具の周りをグルグルと腰を屈めた中腰で調節を繰り返す作業であった。パイプを鞴で1200度に熱して化工するのだが、口径が大きくなるに比例して重さは加わり、鉄の焼けた熱波は容赦なく服を通して襲いかかった。頭のテッペンから滴る汗は体を流れ落ちて作業靴を水浸しにした。入社当初は来る日も来る日もこの作業は続き、足腰は異常に疲労し顔の皮膚は熱波で焼けて何枚も剥けた。これは百姓の仕事に勝るとも劣らない根性と体力を要する大仕事であった。

夜は他の人より1時間早く仕事を終えさせて頂き、自転車で30分の夜間学校へと通った。生徒は科目毎に別れておりクラス30人位であった。電気溶接や工作等の実習の時間は、みんな目を輝かせて先生の指導を受けるが、いざ、講義や学習で黒板に向かうと先生の語る声が子守唄代わりに聞こえた。多くの仲間は揃ってコックリコックリ、「眠い奴は人の邪魔をせずに静かに眠れ」と鷹揚に構える先生の言葉に甘え、昼間の疲れで心地よい眠りをむさぼった。

折角入社してくる若者も3ヶ月と持ずに辞めていくと嘆いていた社長の奥様は、若い働き手の私を大変可愛がって下さった。

私はたまの休日になると朝から古くても安く観れる3本立ての洋画館を探しては、錦糸町、亀戸、葛西橋、新宿、池袋、浅草の映画館街を彷徨った。

夕方の上野公園忍ばず池に映える夕日が好きで、1人ポッツンと佇むことが多かった。池の水面(みなも)に映える夕日をジイーっと見つめていると、夕焼けの不思議な幻想に誘われ、心はいつしか天草灘に没する夕日の中にいた。日本夕日100選に選ばれ、秋晴れの水平線に沈む夕日の大きさは3メートル程に膨らみ、水蒸気を吸い上げてだるま型夕日を創る。雲の隙間から射す紅の陽光は、海はあくまで碧く美しい海岸線を照らし、その夕焼けは信仰の郷のゴシック式建造物の白い教会や風になびくシュロの木、歩いている村人さえも黄金色に染めて行くのであった。夕焼けの中には村人達の表情豊かな笑い声が絶えず、そこには兄弟達のふざけ合う姿や、愛しい母と尊敬する父、懐かしい婆ちゃんや叔父さん叔母さん達の姿さえ現れ、今の生活の事や今日観てきた映画の事など、取り留めのない話をして束の間の逢瀬を楽しんだ。

その後は、西郷どん像の前に行き、高台から塀に寄りかかり、唯呆然と街明かりを眺めることが多かった。ここから見える上野駅は、京浜東北線や山手線が走るために広い陸橋が架けられ、その線路を電車が行き交うたびに「カタンコトン・コトコト、カタンコトン・コトコト」とリズミカルな音を発し、走り去る電車を眺めていると妙に心が静まり、穏やかな心になった。同時に、夕闇に暮れる街のネオンは堪らなく切ない郷愁も誘った。東北からの玄関口である上野駅、東北線の列車が到着するたびにホームに溢れる大勢の乗客、きっと今日初めて東京の土を踏む人も大勢いるであろうと想像する度に、故郷の父母や姉弟をいとおしく思い浮かべ、曇る眼でその風景を眺めているといつの間にか高ぶった気持ちは収まり、疲れた心も体も癒してくれ、明日から又頑張ろうと思える活力を与えてくれた。