心のオアシス故郷
限りなく尽くして、それでもなお海のように日ごとに満ちてくるもの、
それが母の愛情です
半農半漁の村の暮らしは貧しく、幼い頃の常食は、からいもと麦飯、おかずはメザシと梅干だった。白いご飯が食べられるのは、盆・正月とお祝いの時だけだった。物心ついたときからそうだったので貧乏な生活は当たり前と思っていた。“満腹にうまいものなし。空腹に勝る調味料なし”それでも空腹を満たしてくれる「からいも」はとてもおいしく、その幸せを神に感謝した。
尊敬する父と愛する母に見守られ、6人姉弟の長男として育てられた。母は結婚前から病弱であった。何度も死と隣り合わせの大手術を行い、入退院を繰り返していた。父はその度に朝まだ暗いうちに野良仕事を終え、昼は左官の仕事、夜は母の看病をしていた。水道のない時代、川からの水汲み、炊事、洗濯、家畜の世話や小さい弟達の面倒は大きい順番に姉や兄達の役目であった。
母は子供を身籠る度に、お医者さんから「貴女のこの体力で子供を生んだら、自分の命を取るか!子供の命を取るかの決断をしなければならなくなる。場合によっては親子共々最悪の結果が待っている。手遅れにならないうちにご主人と良く相談して、お腹の子供をおろしなさい。中絶しないと貴女の命の保障はできない。」と、重大な選択を迫られた。熱心なカトリック信者の母は、その度に「神様から授かった尊い命です。私が残るか、子供が助かるかは神様のおぼしめしです。私は神様の御旨に従います。」子供を身籠る度に先生と母の問答は何度も繰り返された。母は持病と対峙しながら果敢に闘い、自分の命を削りながらも、その都度、家族や親戚の熱心なお祈りと神様のご加護の下に六人の子供を無事に授かった。しかし、見返りに母の身体は病に蝕まれボロボロであった。
しかし、母は病気が癒えると大変な働き者でもあった。中学3年の秋、学校の遠足で、一山超えた隣村の高浜まで遠征があった。私は学校を休み、未だ明けやらぬ早朝に起き、母と二人で何十キロもある山奥へ一山超え、牛に食べさせる草刈に行った。大きな茂みや藪を掻き分け、若々しい草を選り分けて切り取っては束にしては結び、やっと9時頃に草刈を終えた。私は80キロもある青々とした草を、縄で40キロづつの束を二つにして結わえ「ホコ」の前後に刺して肩に担ぎ、母はその重い草の束を頭にのせて運ぶのであった。2人は山中の道なき急斜面の坂路を、滑り落ちないように足場を確かめながら、一歩一歩踏みしめて広い道路を目指した。私は良い草が一杯刈れたので気分が良かった。「母ちゃん、今日の草はとてもよか草だからきっと牛もパクパク食べるね」と言った。母は「おまえの草は特に青々して美味しい草だから牛もうんと喜ぶよ」と母は褒めてくれた。牛が喜んで食む姿を想像したら担いている草の束がが軽くなったような気がして、坂路も厭わず登って行った。
その時であった、賑やかな話し声と「ザッザッ」と砂利道を集団で歩いてくる音が聞こえてきた。私は一瞬青ざめた。「そうだ。今日は同級生がこの路を通って高浜へ遠足に行くんだった!」私は級友たちと顔を合わせるのをためらい、何処かに身を潜めてやり過ごせればいいんだがと思った。しかし、今やっと山の中から広い道路にたどり着いたばかりであった。身を隠す場所などあろうはずないままに、生徒の集団は近づいて来た。私は祈るような気持ちで息を潜め、みんなが無事に通り過ぎてくれるのを待った。だが目ざとく私を見つけた同級生の一部は、「オーイ、かなめ~、今日も山学校かァー」、一人がからかうと面白がって数人が囃したてた。
担任の先生は「要君、ご苦労様、がんばれよ」と、優しく労わりの言葉を掛けてくれた。ホッと一息入れたのも束の間だった。数人の悪ガキたちは容赦なく私の傍へ寄り「貧乏人の子は辛いなー」「よう鈍百姓」「貧乏人は学校休んでしっかり働けよー」と、口々に悪口雑言を浴びせながら、また「ワイワイ・ガヤガヤ」と何事もなかったかのように下り坂を遠ざかって行った。
暫くして暴風並みの嵐は去り、言われなき静寂が戻ってきた。急ぎ足で母の横に並び、声をかけるのをはばかってそうっと母の横顔を覗いてみた…。子供達からであれ、辛辣な言葉で揶揄された。重い草の束を頭に乗せた母の表情は苦汁に満ち、汗にまみれた頬からは大粒の涙がポタポタ流れ落ち、今までに見たことのない悲しみに打ちひしがれ、憔悴しきった表情をしていた。私が見ているのに気付いた母は、強く噛みしめた唇を震わせながら「要よーい・・・すまんね・・・」と絞り出すような声で私に詫びた。私は「母ちゃん、あいつらの言うことなんか気にせんでよかよ、何の考えなしで言っているんだから…」と答えたが、担いている荷がとたんに重く肩にのしかかってきた。留まることを知らない母の涙は、家に着くまで頬を濡らし続けたのであった。「貧乏人の子で何が悪い、今に見ていろ俺だって・・・」悔し涙にくれながら泣いて帰った道すがら、切なくやるせない思いは強く胸に刻まれた。
社会保険制度のない時代、度重なる入退院の繰り返し、病院代の支払は借金として積み重なり、父の財政は破綻をきたしていた。田畑や山林は母方の伯父や祖母が好意で引き取ってくれた。百万円あれば立派な一軒家が建てられ、裕福なお金持ちを百万長者と呼んでいた時代に、借金は135万円を超えていた。
そのような境遇の中でも、病弱な母を愚痴ひとつ言わず献身的に看病してくれる思いやりの父。いつもニコニコ笑顔の優しい母や幼い兄弟達が少しでも楽になるよう、そして父の財政をいくらかでも応援できればとの願いから就職が決まったのである。中学3年の卒業時、早生まれの14歳であった。
「一旗上げて錦を飾るまでなんで故郷へ帰られようか!」生まれて初めて親元を離れ、見知らぬ都会へ働きに出る少年達の勇気の合言葉でもあった。