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株式会社竹森工業

TAKEMORI INDUSTRY CO.,LTD.

溶接工への転身 昭和37年4月(17才)HEADLINE

明るい陽の光、海の香りをくるんだ空気、青い海と山に囲まれた環境で育ち、
友と海で泳ぎ山野を駆け回って遊んだ少年時代の想い出は心を和ませてくれます

 技術学校を卒業後、杉目溶接工業から出向して一緒に働いていた溶接職人の「西村さん」から、溶接の仕事は技術さえ良ければ「一人ででも一匹狼」として請負で働ける場所があると教わった。溶接工を目指していた私には渡りに船であった。その会社は西村さんの所属している「杉目溶接工業」と云う。
 技術学校から無理をお願いして入れて貰った会社であった。恩返しをすべく暫くの期間頑張った。少しはお返しの奉公出来たかと思える頃に、学校から紹介して頂いた会社を退社した。社長の奥様がとても優しい方で故郷の母と重なり、辞めさせて下さいと頼むのがとても心苦しくて辛かった。会社としては私が学校を終わったんだから、「これからは本格的に仕事一筋で頑張って勤めてくれ」と、言葉の端々で語っていた。辞めさせてくださいと相談に行ったが「辞めると言っても荷物は渡さないよ」とバッグを取り上げられた。目的を達成する為に「近道は無し」一つひとつの段階を確実に踏む、それが鉄則であった。私はその夜の内に寮の窓からこっそりと脱出した。社長の自宅に向かって頭を下げた。感謝とお詫びを申し上げ「志を達成して恩返しを致します」と心に誓った。奥様にはお許しくださいと何度も心で詫びた。目的を達成するために断腸の思いでおいとました。
 独立するに当たり、住家を亀戸駅裏の狭い路地を通り、古い住宅が軒と軒をぶつかり合って建ち並ぶ場所の下宿屋さんに決めた。部屋は3畳一間で押し入れも無く、ベニヤで仕切った隣の部屋からはテレビの音が聞こえて来た。天草を後にして名古屋に就職、あれから3年の月日が経っていたが、里帰りは未だ果たせないでいた。これまで1人住まいの経験は無く、汚く狭い部屋でも自分の城を持ったような満足感があった。ここの下宿は朝夕の食事付きだったので助かった。
 
 杉目溶接工業の社長は65才位で鼻ヒゲをはやし、言葉使いはとても穏やかで優しい眼差しの方であった。葛西橋通りの狭い奥まった路地を100メートル程中入り、階段を1メートル位上がった場所にあった。家の造りは、平屋建てで屋根はトタン張り、外壁は杉の皮を張り付けた家が何軒も軒を連ねた長屋造りの6畳と4,5半の部屋に、奥様と大型コリー犬とで暮らし、風呂は銭湯、部屋の中は犬の毛がいたる所に付着して空を舞い、お茶を飲んでいると湯飲みの中へ舞い降りてきた。社長ご夫妻はこのワンちゃんをこよなく愛し、片時も離さないで絶えず毛繕いをしながら客と対話をし、寝るのも一緒と聞いて、妙に感心した。それかは月に1度、この家へ働いたお金を頂きに訪問するようになった。その度に、ワンちゃんに見初められた私は、顔中ペロペロ、激しい親愛の情を発揮された。
 杉目溶接工業は、溶接の仕事の要請があると契約している数社の工場へ、仕事の量に応じて溶接工を派遣していた。長男と次男も溶接職人として大島の二つの会社に入れ、10人前後の職人を抱え、溶接仲介業者としては名の知れた存在であった。私もここに登録をさせて頂き、鉄骨会社からの要請を受けて溶接工として何ヶ月間か働いた。
杉目さんは工場専門の派遣業務で、私のような技術のおぼつかない若者だと、一緒に仕事をしている溶接工の手間より遥かに劣り、前の会社より数段良くはなったが、自分で納得のいく金額ではなかった。暫らくして、同じような溶接仲介業で主に現場関係派遣会社の数社に登録、自分の可能性を試せる仕事が来るのを待った。※(この当時は、鍛冶屋の職人や溶接工等現場で働く人達を束ね、客先会社の要請に応じて派遣を行い、その仕事が終われば契約が終了する。使用する会社は固定人件費がかからず、必要に応じて大勢の職人を集められるメリットがあった。このようなブローカ的業者がこの業界を支配していた。)
 一匹狼になって初めての現場工事は、大手町の気象庁新庁舎建設現場であった。基礎工事の掘削に伴い地中深く掘り下げる際の土留め防止のシートパイルとそれを支えるH型鋼等の溶接作業であった。地上8階の機械室を含め地下3階建て、高さより横に広い建物であった。基礎工事は深さ15mまで「シートパイル」を溶接で繋ぎ合わせて全周に打ち込み、ユンボや掻き揚げ機を使って土を掘り起こし、その土を場外へ運び出工事であった。土を出すと内部が空洞になり外圧で「シートパイル」が内側に倒れる。このため、大きなH型鋼を添わせて枠を作り、その桁を溶接して行く工事であった。仕事そのものは楽な溶接であったのだが、ヘドロの土を掘り起こした後の足場上で行う溶接作業、ヘドロの付いた足場の昇り降りの移動で、1日の作業が終わる頃は顔も作業着も泥んこまみれであった。都電で35分の距離を2ヶ月間通い続け、給料は前の会社の3倍も頂けた。早速両親の喜ぶ声聞きたさに天草へ送金した。雨さえ降らなければ建設現場の溶接工賃は高給を頂けた。
 春の息吹が聞こえる頃、上野公園の西郷さんに会うため、お昼を過ぎてから上野公園へ行った。この頃はいろんな事が重なって毎日忙殺されていた。久しぶりに来たのが昼の明るい時間帯のせいか、喧騒の町を眺めても走る電車を見ても哀愁の気持ちは沸いてこなかった。
 それでは、「これから浅草で3本立ての映画を観に行こう」と決め、広場から階段へ向かって歩いていたら、突然制服姿の一団に呼び止められた。何事かと思い、立ち止まって話を聞いたら、自衛隊の募集部隊が若者を一本吊りして入隊の勧誘を行っていたものである。「自衛隊に3年入隊すればその間に種々の資格が無料で取得でき、君の今後の人生計画はバラ色に展開できるだろう」と面白おかしく語ってくれた。何をやるにも無料と聞き、これは映画を観るより面白そうだと、初めて乗るジープで六本木の防衛庁へ試験を受けに連れていかれた。付くとそこはとても広い敷地内に幾つもの形状の違う建物が並んでいた。早速体育館の試験場に案内され、10人の教官に指導されながら、20人程の少年達が走ったり、腕立て伏せや懸垂、握力、肺活量検査等を班に分かれて流れ作業的に行われていた。そこへ私も加わった。知力テストは○×式の形通りで終わり、体力検査は念入りに行われ、結果、のちに合格と認定された。
 初めての自衛隊見学と知力?・体力テストの体験は興味を募りとても楽しかった。しかし、入隊する気はなかったのだが、自衛隊の決まりで18才未満の場合は親の承諾が必要とされていた。両親には何も話しはしていなかったのですっかりその事を忘れていた。
 ところが話しは進んでいたのである。自衛隊の要請を受け、天草富岡署から実家の父の元へジープに乗った警察署の人が私の身元調査に来られたらしい。この事は狭い村中に知れ渡るところとなり、話題の少ない村人たちに絶好の餌食にされ「竹森の要は富岡警察署のジープが調べに来るほどの悪いことをしでかしたそうだ」となり、一躍村の評判者?に祭り上げられ、しばらく時の人だったと云う。
 気象庁の現場が終わって休む間もなく、別の仲介業者より建設現場のコンクリート杭用の鉄筋溶接に行ってくれないかと依頼があった。池袋の西武デパートや東武デパート、防衛庁舎等の建設基礎工事の現場であった。広い場所や人家の少ない場所では大きな杭打ち機で「ドッカン・どっかん」と打ち込むのだが、住宅密集地のため「シールド工法」杭の径に合わせた大きさのスクリューで地中の土を掬い上げて穴を掘り、その中に円筒に曲げた鉄筋の筒を落とし込み、その穴の中にコンクリートを流し込んで、基礎用の杭にするものだった。鉄筋の筒の直径は1,5メートルから3メートル位、高さは20メートル、場所によっては30〜40メートルにもなった。筒状のものは鉄筋工が穴の大きさに合わせ、15ミリの鉄筋を曲機を使って器用にクルクルとワッカ状に仕上げ、直径25ミリ長さ5メートルの鉄筋を先ほど丸めたワッカを20個連ねた内部へ、縦に30本を均等に振り分けて通すと5メートルの丸く組み立てた円筒の出来上がりである。それを更にクレーンで縦てに吊り上げ、何本も繋ぎ合わせ、使用する穴の深さに合わせて何十メートルにも組み立て、それらの物を溶接するのが私の仕事であった。
 首都高速道路の工事は、高速道路の橋桁を支えている橋脚は鉄板で出来ているものの中は空洞のため、大型車等が衝突しても傷まないよう強度を強めるために、橋脚側面部分の地上3メートルに丸い穴を開け、そこからコンクリートを注入、その後に穴に蓋をして溶接を行って密閉するものであった。この仕事は溶接やグラインダー仕上げの時は見張り役がついてはいるが、大型車の往来は激しく、更に無謀運転の車も多くて見張り役が車に跳ねられるケースが多発、頭に溶接用面を被って仕事をする溶接工の身には危険きわまりなかった。
 都内の建設現場を転々と流浪の旅が続いた。建設現場のしかも基礎工事、昔から鳶と土方 (※現代は、土木作業員)は相性が悪いと云うか、事の始まりは、互いが「俺達が居ないとお前等は仕事が出来ないのだぞ!」と、自らの優位性の争奪戦から「罵った、つかみ合ったり」が始まった。殆どが九州や東北から出稼ぎに来て、現場の班場で寝泊りしている仲間であるが、酒が入るとそれぞれのお国自慢が始まり「九州が良い!いや東北の方が良い!」とたわいのないことから取っ組み合い、喧嘩の元には事欠かなかった。互いに大切な相棒として認め合い、信頼の構築を図らないと工事も進まない、安全も確保されない、欠かす事の出来ない重要なパートナー同士なのだが、又、天敵でもあった。
 江戸川競艇場・観覧席新設工事、基礎用シートパイルを50メートルの深さに打ち込む工事の時、些細なことから鳶職と土方職が喧嘩になった。溶接工は私ともう一人いた。喧嘩は双方野次り合い互いに譲らず白熱を帯びていた。鳶職と土方職が工事を進めないと私達の溶接する仕事がないので無責任に高見の見物と洒落込み、面白がって双方をヤジりまくった。だが度が過ぎた!気の収まらない連中がこちらへ飛んで来た。今度は、私達が追われる番、江戸川土手まで追い詰められた。後ろは川、退路の無い絶体絶命の状況に…2人は互いの顔を見合わせて頷き、流れの速い江戸川へドボン!服を着たまま飛び込んで必死に荒川土手まで泳いで辿り着いた。振り向くと流石に追ってくる者は一人もいなかった。暫くして対岸からみんなが大声で叫んでいたが無視を決めこんだ。1時間位経ってから、現場監督が鳶と土方を伴ってボートで迎えに来てくれた。「俺たちが悪かった。電気屋さんが来てくれないと俺たちは仕事にならない。頼むから戻ってくれ」と素直に謝られたので、2人とも船で対岸へ戻った。その後も建設現場関係の溶接をしながら、現場から現場を転々と廻って歩いた。しかし、お金は高く貰えたが代わりに溶接技術は粗くなっていく一方だった。技術を磨くために溶接修行をしているはずが不本意な成り行きに反省した。
 技術の高度なところで修行をやり直そうと思い、溶接検査の厳しい砂町の汽車製造会社、津訪車輌、宮地鉄工等江東区の工場群を中心に渡り歩いた。お陰で溶接の腕は相当上達してきた。
 次は単価もよく、技術もワンランク上で溶接部をX線検査して完全溶け込みを要求される石油タンク工事の溶接にチャレンジしてみないかと、仲介業者に勧められ、姉ヶ崎の出光石油の第2期工事、五井の丸善石油、富士石油、磯子の日本石油第1期工事の現場で働き、5,000KLから30,000KLの大型油タンクの溶接工事に挑戦した。大きなタンクの場合、直径は50〜60メートル、高さは30〜40メートル、側板の厚さは30〜40ミリあり、円周溶接横シームに20〜30名の選りすぐりの溶接工が、熱歪をもたらさない様に均等に配分した割り当て分の溶接箇所を同時に行うのであった。一段目を早く終わらせても最後の人が終わらないと次に進めないので遅れることは厳禁であった。しかし、旨い人、早い人、下手な人、遅い人の差は歴然としていた。その様な場合はチームから外され側板の溶接は出来なかった。姉ヶ崎の出光石油現場では、長崎三菱造船から来ていた「高比良正信さん」と初めて出会い、何度も現場で一緒に仕事をやった。その後、彼は中東を中心に外国のタンク現場の溶接技術者として度々渡航、何年も会えなかった。しかし、たまに帰ると一緒に仕事をやり、私が独立してからは工場で手伝って貰い、その優秀な技術力を駆使、若手の指導や溶接を助けていただいた。



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